猪木vsロビンソン 1

2019年09月20日

プロレス
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アントニオ猪木 ジャイアント馬場 力道山

私は父親の影響で小学生の頃からプロレスを見るようになり、今でも昭和プロレスの名勝負の記憶は鮮明に残っています。

そんな私にとって最も忘れられない一戦が、1975年12月11日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木vsビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合です。

この試合が行われた当時の猪木は32歳で、プロレスラーとしては全盛期でした。

一方のロビンソンは英国出身で、欧州ヘビー級王座を長期間に渡って保持した後に、日本と米国マットを主戦場にしていました。

この当時、日本には3つのプロレス団体がありました。

猪木の新日本プロレスの他には、ジャイアント馬場の全日本プロレスともう一つは国際プロレスがあり、力道山が作った老舗の日本プロレスは猪木馬場が相次いで離脱した後に全日本プロレスに吸収合併されていました。

そして所属する日本人レスラーやトップクラスの外人レスラーは、それぞれの団体との契約があり、自由に移籍することは出来ませんでした。

特に外人レスラーに関しては全米マットに強力なコネクションを持つ全日本プロレスが圧倒的に強く、それに対抗する手段として新日本プロレスは「日本選手権」の実現に向けて猪木による馬場への挑戦など、マスコミを利用した話題作りでファンの興味を引いていました。

もう一つの国際プロレスは3団体の中では最も歴史がある一方で、馬場猪木のような客を呼べる絶対的なエースが不在だったため、マイナーなイメージがありました。

そんな国際プロレスで、日本プロレス界で初の外国人エースとして活躍していたのがロビンソンで、当時の国際プロレスの日本人レスラーの誰よりも人気・実力とも大きく上回っていました。

この試合の前年には国際プロレスで現役のIWA世界王者だったストロング小林がフリー宣言をして馬場猪木に挑戦状を送り、挑戦を受諾した猪木との試合は「プロレス版巌流島の決闘」と大きな話題を呼び、超満員の観衆が見守る中で白熱の名勝負を演じました。

そして、この試合に勝った猪木は「実力日本一」を自負するようになり、馬場への挑発行為をエスカレートするようになります。

ただし、私はこの小林との試合の時も「どうせならロビンソンとやればいいのに」と思っていました。

そんな中でいつものように新日本プロレスの試合のTV中継を見ていると、次期シリーズの予告でビル・ロビンソンの参戦決定という告知を見た時には、驚きと喜びの声を上げずに入られませんでした。

この猪木ロビンソンの試合は「夢の対決」や「実力世界一決定戦」などと言われ、これまでにない名勝負の期待が膨らみました。

猪木vsロビンソン 2

アントニオ猪木vsビル・ロビンソンの試合は、大きな期待をさらに上回る内容でした。...

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2019/12/07 (Sat) 16:45

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